真ん中に小さな窪みのある丸い石と、中を刳り貫いたような筒状の石を川原で拾ったのは私が小学生の時だった。つりが好きだった父に連れられて一日、石を眺めたり、虫を捕ったり、魚を追いかけたりしながら過ごしていたような気がする。拾った石は何かの化石だと信じてずっと後まで私の部屋にあった。こんなことを思い出したのも、ある人が書いた私の作品評の一説、「つまり自然の存在物に囲まれた幼少女時代を送っており、彼女の中には自然の造形的モチーフ(自然の言葉)が無数に蓄積されている。(中略)粘土を積み上げていくという造形方法が彼女の中に蓄積されている無数の自然の言葉をその深層意識から汲み出してくる。「つくる」という、物質への身体の働きかけを通して、身体の中の自然の言葉が物質の中へと流れ込んでいく」という文章が印象に残ったからもしれない。
近年、私は生活と制作の場をクヌギ林の中に移し、自分の傍らにある自然に触れることが多くなった。生活はいたってシンプルである。食事を作り、部屋を整え、衣服を洗いそれを干す、日々の雑事と共に作品の制作を続ける。その間に鳥が枝に留まるのを眺めたり、草の芽吹きを屈んで見つめたり、落ち葉を陽にかざしてみたり、どんぐりを拾ったりしながら日々を送っている。そんな身近な出会いの中から、生物が四季を送り厳しい気候条件に対応しながら「種」を存続させているということを知った。生物の表面に現れた形、見えている形の奥に秘められた力を、土で作る形に込めることができないだろうかと考えるようになったのは、この暮らしの中では自然な発想なのかも知れない。
制作方法もシンプルである。粘土をひも状に延ばし下から輪積みしていく。土器の作り方と同じだが、一つ違うことは口を塞いで中を中空にしてしまうことであろうか。この作り方をすればかなり大きなものまで作れる。また、形も細長いものから丸いものまで様々に作ることができる。作りたいフォルムは輪積みしながら押し出したり、外からつぼめたりしながら決定できる。その点で粘土の造形には最適な方法ではないかと考えている。形が出来上がった後に、表面を引っ掻いたり、へらで傷つけたりしながら仕上げていく。最終的には化粧土を何層にも施して焼成し完成させるのだが、この表面処理も大切な仕事の一つである。表面を仕上げていくことで粘土の色とテクスチャーと化粧土が重層的に作品の表情となって現れてくるからだ。そのようにして形と表面が一体となった時、作品が他の素材(鉄や石や木)と違う質、陶でしか出来ない質を持つことができると思っている。
終わりのない長い物語を書くように私の制作は続いている。一つの作品を完成させることで、技術的な問題や、自分の考えがそこに表れているかどうかを客観的に見直して、再び新たな試みを始めたいと願うようになる。幼い頃の思いでも、今起きている出来事も、私にとっては制作するための点、始まりの点である。名もなき日々にちりばめられた小さな点を、大きく膨らませてみたい、自分の目の前に現実の形にして出現させてみたいと思う欲求が続く限り、私は作品を作り続ける。そうすれば名もなき日々は貴重な日々に変わるだろう。
中井川 由季
1998.2